このブログに目を通していただいた方、ありがとうございます。みーつです。
6月4日に誕生日を迎え、30歳になる予定です。本日は文章を書く練習も含めて半生を振り返って書いてみたいと思います。乱文になるとは思いますが、止まらずに書ききれるように勧めていきたいと思います。
自分自身が親になった。というのも今回の事を書くきっかけになったと思います。
幼少期
皆さんは何歳ごろの記憶が最後の記憶になりますか? 私の記憶は幼稚園児の頃でしょうか。そのころから自分という存在を認識しました。その頃から基本的な性格は変わっていないと思います。
幼稚園児の頃の一番の記憶は、両親の離婚になります。両親が離婚するのと同時に幼稚園を転園し、母と妹と自分の三人暮らしが始まりました。正確には祖母と従姉妹と叔母を含めた6人家族の時期もありました。
正確には、と説明したのはその時の記憶があまりありません。引っ越しを良くしていた為、そんな時もあったはず。といった感じでしょうか。
幼いながらに、何かを感じながらも、その頃の感情までは思い出せません。
よくわからないけれど、元気に育っていたと思われます。
小学生時代
楽しい記憶と悲しい記憶。同じくらいある時代だったのでしょうか。語れることはたくさんあるけれど、どう書いていけばいいのかわからない時代でもあります。
自分の家庭は貧乏だったと思います。
手のかかる妹は、母にとってとてもかわいい存在で、男である自分はどう育てたらいいのかわからない生き物だったのだと今思えばわかります。
いまでも印象的なのが、母の「○○(妹)は女の子だからどうしても1番かわいい。みーつは二番目に好きだよ」というセリフです。このセリフは私の人生で何度も聞いたセリフになります。
あの頃は、「そりゃ仕方ないよね!」って感じで答えていました。あの頃はこのセリフにダメージを負っている事にも気づけていませんでした。大人になって思い返すとやっぱり傷ついていたんでしょうね。
自分の息子には二番目なんて口が裂けても言いたくない。将来、娘が産まれて性別の違いによる意思疎通が難しく感じても、2番目なんてことはないでしょう。子供はどの子も1番と言ってあげたい。
話がそれましたね、小学生時代はずっと二番目に好きな子供として育ちました。
その為、家の自分の性格と、小学校での性格は全く違っていきました。
外ではいろんな人と仲良く笑って話していたが、我が家ではあまり喋らず静かに過ごしていました。
両親が離婚してからも、自分と妹は父のもとに定期的に遊びに行っていました。行かされていたといった感じでしょうか。楽しく感じることもありましたし、何かが違うな。と感じることもたくさんありました。
父方の親族はお金を持っている家でした。祖父母も伯父叔母もいとこ達も、お金を持っている。というか、すごく普通の人達でした。自分とは違う世界の人間に感じました。
仲良さげに話しかけてくる親戚が、どうしてこんなに馴れ馴れしいのか、友達のように一から関係を作ったわけでもないのに、どうしてなんだ?と疑問を覚えていました。血がつながっているからと言って、親しいとは限らない。
なんたって、自分は2番目の子供だ。そう考えて生きていきました。
兄の死
自分は母にとっては長男であり、三男でもあったのかもしれません。
私の父には連れ子が居ました。6つ離れた双子の兄が居ました。私にとっては一緒に過ごしていた期間が短かった為、双子の兄がどっちがどっちかわかりませんでした。離婚した後もたまに遊んでくれました。双子の兄は仲が悪かった為、自分の前にいつも一人しか来なかった。というのも二人を区別できなかった大きな理由かもしれません。
双子の兄は、母に懐いていました。幼いころを一緒に過ごした育ての母なので当然でしょう。母も兄二人が懐いていることに嬉しそうでした。育ての母として、二人と良い絆を結んでいるようでした。
そんな母の姿を見ていると、自分は実際に産んでもらえてないのかな?なんて考えることもありました。
そんな話を母にすると、母に怒られたことを覚えています。
「何馬鹿な事言ってるの? 二人は実際に産んでる訳じゃないんだから、ちゃんと優しくもするし話もするよ。みーつは実際に産んでいて、自分の息子なんだから、こうやって本音で話せるのさ」
と。なるほど。 とは思えませんでした。
じゃあ、実際に産んでもらわないほうが得じゃない? そのほうが優しくしてもらえるんでしょ?
なんてことを考えていました。
そんな、不満を抱えながら生きているある日、兄が遊びに来ました。バイクでどっか行こうと誘いに来たのです。
しかし、タイミングが悪かった。そんな急ぎでも何でもない、特別でもない遊びの為、断りました。あの時、断った事をいまだに後悔しています。
翌日早朝、母に叩き起こされ、よくわからないままに病院へ。連れていかれた先は病室ではなく、霊安室に案内されました。そこで、兄が横たわっていました。
死んだんだ。すぐに理解しました。けれど、理解に感情がすぐに追いつかない。
幼い自分には、亡くなった事が、思いや感情とすぐに直結しない。悲しいけれど、涙が出ることはなかった。
いったん、ここまで
もっと、細かく書けることはあるかもしれない。けれど、小学生時代まではこのぐらいにしておこうと思います。
思い返して思うことは、子供は親に頼ることしかできない。小生意気な事を言うこともあるでしょう。ムカつく事を言うこともあるでしょう。それでも、何がどう転んでも子供は親を頼ることしかできないのです。
大人が大人の力で子供と相対してしまうと、子供に勝ち目はありません。
小生意気な態度も、親の愛情を試すような行動に感じるのです。
だからこそ慈しみ守ってあげる存在なのだと思うのです。
自分が、子供と相対するときは、守るべき存在として、そして一人の人間として尊重してあげたい。
自分がそうして欲しかった。という気持ちを一つずつ拾い上げるような、子育てになっていくのだと思います。